◎人が助かりさえすれば。
◎神心。
昭和四十九年四月四日 朝の御理解
X御理解第五節
「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり」
「一心を立てればおかげになる」これは例えば、話しを聞かなくっても御教えを頂かなくっても、一心を立てればおかげになるというおかげと、「神がもの言うて聞かせることはあるまいが」と。ここへ参って来ると、神様がものを言うて下さるようにいろいろと教えを下さる。そうだったかと自分の心を取り直したり、改めたり、または本気で研かせて頂いて、そこからおかげを頂いて行くという生き方。信心にはどちらがどうということはないけれども、やはり一心も立てたいし、同時に話しも頂いて心を開いて、そこからおかげを頂いて行きたいと思うんです。
「生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし」と、いわゆる生きた神なんだ。だからこちらの心が生きてこなければいけない。生き生きとして生きてこなければならない。どんなにおかげが欲しい、育って欲しいというても枯れた木が天に手を差し伸べておるように見えておっても、枯れ木は伸ばしようはない。やっぱり根から吸い上げるもの、そこに力がある。生き生きと枝葉にまでそれを送ることが出来る。そういう心で、言うならば、教えを頂いて心が生き生きとしてくる。そこから「どうぞ助けて下さい」と言えば、伸ばしても頂けるし、育てても頂けるし、おかげも受けられるという訳です。
だから問題は、その生きた心が、一心を立てておかげを頂くと言うても、やはりお水をかかったり、断食をしたり、これはやっぱり心が生きとらなければ出来ることじゃありませんが、それもやはり成程、「一心を立てればおかげになる」というのは、そのことだと思うのです。けども、どちらかと言うとです。金光様の御信心は話を聞いて助かる道であってね。話を聞いて心が躍動してくる。生き生きとしてくる。改まることの、研いていくことの楽しさやらも教えて頂けれる。その有難い勿体ないでの信心が身に付いて来るところからです。いわゆる頂けるところのおかげというのが、だいたいまあ、私は本当だとこう思うですね。
私は日本一主義です。皆さん一人一人、その何をか以て、日本一といわれるくらいな秀でたものを身につけて頂きたい。合楽では私が何時もそう申しますから、皆さんも日本一を目指して頂かなければならん。事実日本一を目指しておられる方はいくらもあります。ところが、その私は今日、その方のことをお願いさせてもらいよりましたら、いろいろ人間関係とか、または経済の上とか、また自分の身体の上とか。いろいろと不如意なことが起きて来る。特に人間関係なんかは、沢山の人を使ってありますから、なかなか思うように行かない。言うなら頭痛の種というところである。普通で言うなら。
そのことを私、もっとスムーズなおかげ頂けないものだろうかと思うて、お願いさせてもらいよったらね、富士山を頂くのですよ。富士山は日本一の山といわれる。しかも綺麗で気高い。そういう言うならば信心を目指させて頂いておるが、あれが例えば、頂に雪がなかったり、途中に雲がかかってなかったりしたら、富士山の風情はもう半減いたしますよね。日本一を目指せばこそ、言わば、頭もちっとは重たいところもある訳です。言うなら、途中に何やらかにやら分からんけれども、どういう御都合か分からんけれども、こう雲がかかってこそはじめて、富士山の富士山たる言わば美しさとか気高さがあるのだと。ほんなことそういうふうに頂けば、雲のあることも有難いなあ。頭のちっと重たいことも、これは日本一を目指さして頂いとるなら、これはむしろ当然のことであって、いやむしろ有り難いことだと分かる時に、心が有難いという心で生き生きとしてくる。神様の御期待がある証拠だ。皆様がいよいよ日本一を目指しとれば、日本一を下さろうとする働きなんだと、こう自分で思える時にです。どうしてこんなにということじゃなくて、神様がこうしていよいよ育てて下さるんだという心が開けてくる。その心がおかげを頂くのである。
それをどうしてこんなに雲がかかっとるじゃろうか、どうしてこんなに雪が降るじゃろうかと、言いよったんではね。いわゆる一心を立てれば、おかげになるかも知れませんけれど、ただ苦しい苦しいで一心を立てておかげを頂いたんじゃ、私は金光様の御信心の値打ちはないと思う。金光様の御信心はどこまでもです。いわゆる、ものを言う、今まではどこへ参っても、ものを言うてくれる所はなかったけれども、方便の願い捨てであったけれども、ただ一心に願うだけであったけれども、此処へ参って来ると御教えを頂いて、ああそうだったか、成る程と合点のいくような、神様がいかにももの言うて下さるかのように教えも下さるから、心が開けてくる。生き生きと有難うなってくる。いわゆる、本当に信心生活させて頂く者の、言わば心の安らぎとか、安心のおかげとかというのは、心が開けなければ、ただ一心に縋るとか願うとかということ、言うなら行者風の信心からだけでは生まれて来ないということ。
昨日、吉井の熊谷さんがお参りになってから、「先生、どうにも心がさっぱりしない」と、こう言うてある。「どうしたんですか」と言うたら、実は大石の方の娘さんが嫁(い)っておられる所は大きな病院ですけれども。そこの御長男が今医大に行っておられますが、それこそもう不治の病と、今の医学でもいわれておる白血病で病院に入院された。他の病院に。それをまあ、聞かれた前後のところにいろんな話がありますけれども、まあそのことで一生懸命神様へお縋りなさる。だから、そのことは日頃教えを頂いとるから、おかげを頂いてびくともしなかったし、また本当にもう冷たいのじゃなかろうかと自分で思われるくらいな、冷静な心でお取次を毎日願われることによっておかげを頂いた。
そのことを聞かれて願われる頃からね、病態が変わってきたんです。病状が。そしてこれは白血病じゃないじゃろうかということにまでなってきたんです。そしてもうおかげを受けて行かれて、昨日、一昨日もその娘さんの所に行かれたところが、もうそれこそ、勿論何時の場合でもそうですけれども、下にも置かんようにして、娘婿であるところの石井先生も「とにかくお母さん今晩泊まって行って下さい」と言って、まあいろいろ御馳走されてからですね。「今度、家の息子の、ちょいと不思議なこっちゃあります」と。とにかく医者が、その合間にですね、例えば非常に質の悪いカサが出来たそうです。次々と。このカサは「このカサだけでもこりゃ大変な病気ですよ」と言って、そのお医者さんが言われたそうです。そしたらね、明くる日は嘘のように治っとったと。医者もびっくりしとったと。
だからその通りに体の上にもです。そういう働きが何回も何回も不思議でたまらんことが次々と起こったと。「本当にあの医者は上手ですばい、お母さん」と、こう言われる訳です。「これはお母さんがお願いして頂きよるけん、不思議なおかげ頂いておる」と言やあ、ああよかった。嬉しかったということでしょうけれどもね。「おかげ」ということは「お」の字もいわん。「お母さんあなたにお参りしてもらいよるけん」とはこっから先も言わん。と言うて親不孝じゃない。それこそ下にも置かんようにして大事にされるけれども、親が一番願っておるのはです。こういうことによって入信のおかげを頂いて、こういうことによって、神様の有り難さが分かってくれればと、日頃祈っておるのですから。やっぱり心が穏やかじゃない訳です。まあ昨日からそのことをづうーっと考え続けて、私の不徳のために、こういう大変なおかげを頂いて、もうすぐ退院間近という程しにおかげを受けとられる。にもかかわらず、「おかげ」の「お」の字も言わん。「御礼参りをしよう」とも言わんところにここはさあ言うたものか、言わんものか。黙って治めるとおっしゃるから黙って辛抱しておるものの、心は穏やかでない。こういう場合どういうような心になったらよかろうかと、こういうことなんです。
これもまた同じようなことですけども、日田の綾部さんがああして毎日お参りになります。あちらの経理の方を担当しておられる方が、これも医者がもう助からんという程しの病気で入院された。それで毎日毎日お届けがあった。ところが、もう本当にこの神様はとりわけです。信心のない人のお願いをです。信心のある私共が神心をもってさせて頂くとね、相手は信心がなかってもそれは不思議に助かるです。これは本当に助かるです。皆さんも体験があることだと思うです。信心が分からにゃおかげ頂かんじゃなくて、それは取次を願う、なら綾部さんであり、熊谷さん自身が力を受けられ、徳を受けられるのであってですね。もうあれは信心にならんから、おかげをやらんといった神様じゃないということが分かりますね。
これなんかももう本当に不思議におかげを頂いて、大変なおかげを頂いて、現在お店の方に今見えとられます。それで勿論「この後のことを合楽の親先生のお取次を頂いてお願いずっとさせて頂きよります」とはまあ言うた。「はあそれはいっぺんお参りせにゃいかんですの、お参りせにゃいかんですの」は言いながらも、それをおかげと、おかげと思うとらん印がいろんなところに見える訳です。だからちっと歯痒い訳ですね。これは絶対そのことだけじゃない。綾部さん達はいくらも体験がある訳です。お願いをしておかげを頂いたという。もう、そういう医者が助からんと言うのが助かった。もう明日か明後日じゃろいっとるとが助かっとるのがあるです。綾部さんのお取次で。だからそれらが分っとられる訳なんです。神様の働きを。ところが肝心要の、その病人さん自身がそれを分からん訳です。だからやっぱり熊谷さんと同じです。本当に歯痒い思いをしておると、こういうことです。
それで私は熊谷さんの取次ぎさせて頂いた時のことを、綾部さんにも聞いて頂いた。教祖の神様の御信心の、言うなら根本精神というものはね、人が助かることさえ出来ればというのが、金光様のいわゆる信心の根本である。あれがおかげを頂いて、俺のところの信者になってくれるということが願いじゃないということなんです。問題は此方は、人が助かることさえできれば結構であるとおっしゃった。
それで熊谷さん、実は私もね、以前はそういう本当におかげを頂いて、そげなことでよいか、そげなことではいけんがと、言うたり思うたり。心をいよいよ揉んだもんですけれども、それでは助からんです。それでもそのために、一心を立ててです。修行でもさせてもろうて、その人が分からしてもらえるように、分からせて貰える様にお願いをする手もあるけれどもです。これでは本当の助かりにはならない。
これは私はどげな、なら難儀な問題の病気であろうが、いろんな難儀な問題のお取次ぎをさせて頂くでもです。条件をつけたことがない。もう問題はその人が助かりさえすればよい。御礼参りに来なくっても、例えば信心にならなくってもです。そこは、それから先はもう神様の分域だと自分でこの頃思うようになった。
たった一つ私がこれだけは条件を出したというのが、善導寺の原さんですよ。昌一郎さんがもう助からん今日はもうしまえるといった時に私が、「あんた達夫婦が一生この神様を忘れん、この修行を続けるという願いを立てれば、そのことを取次させて、もらって、助かりのお願いをしよう」というふうに言ったのは。私はこれだけ沢山二十何年取次させて頂きよるばってん、原さんが一人です。こういうふうに条件を付けたことは。助けて貰う、そのかわりあんた達が夫婦で一心に信心をせにゃばい、というのが私がその時に原さん達夫婦に申し上げたことでしたけれども。そういう行き方もいけないのじゃないけれども、段々金光様の御信心ぶりというのが分かって来たら、信心するとかしないとかいうことは。もう神様がお育て下さるということはです。もうそこは神様の分域だと。取次者であるところの私は、問題は人が助かることさえできればという心持ちにならせて頂いたら、参って来るまいが、御礼参りに来るまいが。却っておかげを頂いておる事実をです。反対に、言うたりするような人達もないではないですけれども。おかげで心を汚さんで済むようになった。
「これは熊谷さん本当にあなたの、この際孫にも判らせよう、娘達にも信心の有難さを判らせようと思う、その思いはよいけれども問題は助かることさえすればよいという精神になると、そういう心の状態になると、楽になりますよ」と言うて話したら。もう親先生、もうそれこそもの言うて聞かせて頂いたところが、もうその場で「本当に親先生そうでした」と。正文さんといいますが、正文がもう本当は助かりさえすればよいのですと。それによって信心になるまいが、それから先は神様の分野であるからという話をさせて頂いた。
綾部さんにその話をさせて頂いたら、「本当そうですね」という訳です。この神様はじゃっては、無い命でも、例えば第三者の自分が一心を以てお願いすりゃあ、助けて頂けれるという、信じる心というものが熊谷さんの心の上に、または綾部さんの心の上に頂けるということだけでも大したことなんだ。ほんなことあの人が御礼参り例えばしなくても、そういう風な頂き方をすれば、有り難いですねと言うことであります。これなんかは神様がもの言うて下さる。片便の願い捨て的な信心をしておったんでは、それが何時までも心がさっぱりしない。
今日はご神前で、『毒薬変じて薬となると言うが、薬変じて毒となる』というお知らせを頂いた。普通一般では「毒薬が変じて薬となる」と言いますね。けれども「薬が変じて毒になる」例えて申しますと、今の綾部さんとか熊谷さんの例をもってしますとね。それこそもう、薬と言える程しのおかげを頂いとるのだけれども、それを取り次がれた。または、その方のことをお取次願われた。本当にあの人ばかりは恩も義理もなか、わからん人じゃある。これしこお願いしてやって、おかげ頂いて助かってきておりながら、神様のおかげのおの字も言わっしゃらん。というような心を起こすとです。せっかくの薬が毒になると言うのですから大変なことですね。
最近私がいわれておる。もうこればっかりはどうした分からん奴じゃろうか、というような心。それでもそれが自分の身近な者であったり、子供であったりする場合は、助けてもらいたい。だから、本当にこん奴ばっかりはどうした分からん奴じゃろうか、というような心で願ってもおかげにならんというのはそのことです。親が子を、例えば思う情というものはです。本当にどげんかして助かってもらいたい、けれども分からん。こん奴ばっかりはいくら言って聞かせても分からん。これはね、薬が返って毒になっていきよるとです。そこにです、いわゆる神心ということになるのです。
信心させて頂けばもういよいよもって、和賀心をいよいよ育てさせて頂いて、どのような場合であっても、それによって自分の心を汚す様なことのない、その心で祈らせて頂くなら祈らせて頂く。一心を立てるなら一心を立てて、どうでもおかげを頂くようにと言うて、願うておかげを頂かんならんけれども。肝心要なのは、人が助かることさえ出来ればというのは、私自身がよりもっと助かるということだということが分かります。私が、よりもっと助かったその心。その時点で、願うて行くところからです。人の助かる働きもさることながら、自分自身がおかげを頂いて、成程日本一を目指しておる私だから、このくらいな雲はかえって風情として頂けて頂けるといったようなおかげになって来ると思うのです。
「此方が祈る所は天地金乃神と一心なり」私はこれは教祖の神様だけの専売特許ではないと。私共が天地の心と一つになるということ。それは今日皆さんに聞いて頂いた、いわゆる話を聞いて、言うならば今までは方便の願い捨て的な信心では心は開けない。けれどもお話を聞いて心が開けてくると、そこに今までどうしてと思うておったのが、こうしてという有難い心になってくる。その心が天地の心と一つになる訳です。それが天地の心なんです。だから「私が祈るところ天地の神と一心なり」といったような、言ううならば、偉大な信心を身につけて行くことが出来る訳です。お互いそのためにはどうでも一つね。どういう意味でもよいから、日本一を目指して下さい。日本一を目指すということは、言葉を変えると世界一になるかも知れません。けど何でもかんでも日本一ということはいらんのですから、これだけはというようなものがいよいよ育つ。そして日本一になれる、なれんは別としてですよ。そういう祈り・願いを持っておらなければ、いよいよ心が豊にも大きくも清まりもすることがです。本当なものになってこない。もう雲がちっとかかると、もうくっとしてしまう。ちっと冷たい思いをすると、もう心がぐらつくといったようなことでは、心がさっぱりせんといったようなことではです。せっかくお道の信心を頂いておる値打ちがないことになります。
どうぞ。